かわら版 平成19年5月31日号

  

今日は何の日でしょう? (5月26日〜5月31日分です)



●5月26日


大正13年(西暦1924年)5月26日
アメリカに於いて排日移民法が成立した。
日清・日露の両戦争に勝利した日本は、第1次世界大戦でも戦勝国となり、次第に
発展して、世界 特に極東において重い地位を占めてきたのだが、この発展をみて、
白色人種の各国は次第に反日感情を抱き始めていたが、特にアメリカはひどく、先
に最高法院においては、日本人の帰化を禁止の判決を下していたのだが、本日 ア
メリカ大統領クーリッジは排日移民法に署名し、露骨に反日感情をむき出しにした。
アメリカ政府内にはワシントン会議を契機として「日米開戦論」が起こって憂慮され
る事態となったので、日本政府は文書をもって抗議を行った。然し 全く容れられず、
資源の無い日本が発展成長をする為には、アメリカ以外の地を求めねばならず、
これは結果としては日本が満蒙の開拓に向かう原因となったのである。
筆者菅原は大正13年生まれで、この排日移民法が成立した後の7月に朝鮮南部
で生を受けたが、既にもう米国の反日政策が始まっていたのであった。この様に
大東亜戦争への根は深いとの思いがある。



昭和17年5月26日

◎ 米ソ間に武器貸与協定が成立した。

◎ ニューカレドニア(仏領でニッケルの産地で有名)の軍政の件で陸海軍がもめる。
FS作戦(米豪分断作戦のこと)では、出来たらニューカレドニアまで行こうと言う海
軍側の主張であるが、その場合 ニューカレドニアの軍政を陸海どちらがするかで
もめていたのであった。前にも書いたが、“捕らぬ狸の皮算用”であり、陸軍参謀本
部は海軍が軍政をするなら陸軍は撤兵すると言い、海軍はこれ又譲らない。
これは28日に両軍務局長の詰めで、軍政は陸軍、資源開発は陸海共営という事
で意見が一致した。

◎ 英国・ソ連とが20年間同盟条約に調印した。
チャーチル英首相とソ連モロトフ外相とが、ロンドンで英ソ20年間同盟条約に調印
した。


昭和18年5月26日

◎ インパール方面作戦について。
牟田口第15軍司令官は、インパール作戦構想に反対意見の同軍参謀長小畑信
良少将を罷免した。


昭和19年5月26日

◎ ニューギニア西部サルミ東方対岸のワクデ島戦線。
5月17日 米軍が上陸したワクデ島では、守備の歩兵第224連隊(秋田)第9中隊
(石塚中尉)配属砲兵小隊・重機関銃中隊などの約250名と、航空部隊約250名・
戦地病院15名・海軍100名などの計約615名が玉砕した。
米軍の記録では、日本軍戦死759名・捕虜4名、米軍戦死40名・戦傷107名とな
って居る。

◎ インパール作戦。
歩兵第214連隊(宇都宮)第1大隊へと追及してきた兵約70名は、山守大尉(連隊
本部付)の指揮により、ピシェンプールの敵司令部付近に突入して全員戦死した。
インパール方面は雨期に入り、連日泥まみれの戦闘であった。
コヒマ東方10キロの第31師団司令部からは、佐藤師団長から15軍司令官牟田口
中将宛に「師団は今や糧も火砲の弾薬も悉く消耗せしをもって、遅くとも6月1日迄
にはコヒマ戦線を撤退し補給を受け得る地点迄移動せんとす」と5月20日には打電
して居た。
3週間分の糧食携行で始まった作戦は、既に2ヶ月半も経過して決着がつかず、雨
期となった。
31師団と15軍司令部との間には電報が飛び交った。軍司令官は翻意を求めるが、
佐藤師団長は益々いきりたつという具合であった。(続く)


昭和20年5月26日

◎ 5月24・25日と続く大空襲による被害は甚大であった。
特に昨夜の大爆撃で宮中正殿は炎上し、海軍省・大東亜省・外務省も焼失した。
9時から陸軍省部会議では戒厳を論じられた。10時からは臨時閣議があり、阿南
陸軍大臣は陸海軍一所勤務を話すが、米内海相は同意しなかった。

◎ 沖縄戦線。
32軍は軍主力の南部撤退作戦を行う事となり、まず第62師団(京都、藤岡中将)
司令部が首里南方4キロの津嘉山に移動した。
【特攻作戦】陸軍特攻1隊飛燕6機と別に喜界島に不時着していた97戦1機に別
の不時着していた者が搭乗しての2名とで突入した。戦果としては、駆逐艦「アン
ソニー」(2,100トン)・「ブレイン」(2,100トン)・他3隻に損傷を与えた。

◎ 近海では本日も輸送船他9隻が撃沈された。(略す)



●5月27日


明治38年(西暦1905年)5月27日
◎ 日本海海戦。
明治37年10月15日 ロシアのバルチック艦隊(ロジェストウエンスキー中将)の38
隻の大艦隊は、日本攻撃に向けて母港を出発したが、その後 航行を続けて日本に
接近し、明治38年5月27日午前2時30分 五島列島西方水域で警戒中の仮装巡
洋艦「信濃丸」がこれを発見した。我が連合艦隊(東郷平八郎大将)は「敵艦隊見ゆ
との報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気清朗なれど
も波高し」
の電報を発し、午前6時「沖の島」北方に進出を終え、敵の出現を待った。
午後1時39分 南西約13キロメートルにロシア艦隊を望見した。我が艦隊は西進し
つつ、午後1時59分「旗艦三笠」のマスト高く『皇国の興廃比の一戦に在り、各員
一層奮励努力せよ』の信号「Z旗」
が掲げられた。この信号はおよそ200年前に英
国の存亡をかけたトラフアルガー海戦に於いて、名提督ネルソンが旗艦「ビクトリー
号」に掲げた信号『英国は各員がその職務を尽くす事を期待する』とともに世界的
に有名になった信号である。
進撃3分で敵との距離8キロメートルで我艦隊には突如左大回頭が発令され、「東
郷ターン」が敢行され、ここに大海戦の火ぶたが切って落とされた。激戦1時間で
大勢は決し、ロシア新鋭戦艦5隻の内4隻が沈没、1隻大破、その他の艦も大損害
を受けた。38隻のロシアバルチック艦隊は26隻が捕獲 又は撃沈されたが、日本
艦隊は殆ど無傷に近かったのである。完全な日本の勝利であった。

そもそも日露戦争は、超大国帝政ロシアに対して、当時 無名に近かった日本が、
国家の総力をあげて死力を尽くして戦いぬき、遂には島国日本を不敗の態勢に作
り上げ、ロシアの継戦意回を放棄させた戦いであった。
この小国有色人種の日本の大勝利が海外に与えた影響は甚大であった。ロシアの
南下を食い止め独立を確保したことは、中国の孫文やインドのネールを始め、アジ
ア・アフリカの諸民族に希望と自信を与え、トルコ・ポーランド・フィンランド等々に独
立運動を巻き起こすきっかけとなった。
昭和20年の終戦まで、「海軍記念日」として国家の祝日であった。当地福岡でも、
筥崎宮では毎年祝賀会が行われるが、今年も102周年祝賀式典が開かれ多数が
参加した。式後 自衛艦2隻に乗って洋上にて慰霊を行った。又 津屋崎の海に面し
た丘にある東郷神社でも毎年盛大に式典が行われている。


昭和17年5月27日

◎ 海軍は得意の絶頂とも言うべき戦勝ムードの中の海軍記念日であった。
各地で祝賀行事が行われたが、東京では銀座通りで海軍陸戦隊が行進を行った。

◎ ミッドウェー攻略の実動開始。
*大本営海軍軍令部のミッドウェー攻略が目的という方針に対して、連合艦隊(山
  本司令長官)は敵空母おびき出し撃滅目的であると食い違ったまま作戦が始ま
  った。
*連合艦隊の動き。
 (イ)午前4時 主部隊第1航空艦隊(南雲司令長官、中将)の機動部隊が、第10
   戦隊の軽巡「長良」と駆逐艦12隻とに守られて広島湾南部の柱島泊地を出
   発した。
 (ロ)午前6時 第1航空戦隊の「赤城」「加賀」と第2航空戦隊の「飛龍」「蒼龍」の
   空母4隻が高速戦艦「榛名」「霧島」・重巡「利根」「筑摩」に守られて、小雨が
   降る後水道を一路南下して行った。
 (ハ)29日には夜明けを待って、第2艦隊(近藤中将)の重巡「愛宕」以下4隻と
   高速戦艦「金剛」「比叡」主力の攻略部隊が出撃。
 (ニ)28日には陸軍2,000名と海軍陸戦隊2,550名との上陸部隊を乗せた船団
   がサイパンを出撃した。
 (ホ)29日午後6時 しんがりの主力部隊として山本司令長官の戦艦部隊7隻が
   続いた。旗艦「大和」は作戦としては始めての外洋進出である。
 (ヘ)先遣の潜水艦部隊・給油艦・輸送船(飛行場設営隊2隊も)等を加えれば
   140隻に及ぶ。
 (ト)同時進行のアリューシャン攻略約20隻を加えれば、総勢160隻以上となる
   日本海軍のほぼ総力をあげた作戦である。
 (チ)戦艦「伊勢」と「日向」とには始めてレーダーが装備されていた。但し どうし
   てか?後方配備で実戦には役立たず。
 (リ)連合艦隊はハワイで討てなかった米空母をおびき出してその撃滅を目指し
   乍ら、敵空母の数も所在もつかめてないままの出撃であったのに対して、
   米軍側のニミッツ大将は日本軍の暗号解読に成功して居り、屡々日本海軍
   の無線に出てくる“AF”という暗号地名はミッドウェーであると解読して居り、
   逆に待ち構えていたのであった。当時 連合艦隊は勇み立っていたが、いよ
   いよ取り返しのつかない破滅への途へと走りつつあったのである。


昭和18年5月27日

◎ 海軍記念日であるが、キスカ島よりの撤退を開始した。
潜水艦によるキスカ島撤退で、本日まず「伊7号」が60人を輸送した。(アッツ島
は激戦中。)


昭和19年5月27日

◎ 海軍記念日であるが、米軍がニューギニア西部でビアク島に上陸を開始した。
大本営陸軍戦争指導班では、「ここへの上陸は切迫している」と判断していたの
を、何故か本日「6月中旬頃上陸見込」と変更したばかりであった。
ビアク島守備の歩兵第224連隊(秋田)の第7中隊長横山中尉は、敵戦車に爆薬
を抱いて突入し戦死した。第2中隊は夜襲をしたが、斉藤中隊長(斉藤中尉)も戦
死し、死傷者が続出した。陸軍飛行第5戦隊(高田少佐)2式復戦屠竜4機がビア
ク島沖の敵艦船を攻撃し、全機体当たりで未帰還であった。米側駆潜艇1隻大破
で日本側発表と食い違いがあった。

◎ 支那戦線。
支那派遣軍は8ヶ師団強の大軍をもって歴史的奥漢打通作戦を開始し、これが重
慶政府にいかに響くか期待した。
第11軍(横山勇中将)は湘桂作戦を開始した。

昭和20年5月27日

◎ 沖縄戦線。
*32軍司令部も首里から津嘉山に移転した。
*航空特攻が続いた。
海軍が菊水8号を発令した。白菊19機・94水偵(復葉フロート2本)2機・ゼロ式
水偵1機の計4隊22機が突入した。陸軍特攻は99襲9機・2式高練5機の2隊
14機が突入した。
駆逐艦「ドレックス」(2,200トン)に2機が命中して撃沈し、米軍158名が戦死・
行方不明となる。他6隻にも損傷を与えた。



●5月28日


明治33年(西暦1900年)5月28日

◎ 支那で義和団が蜂起し、北清事変が勃発した。
支那には前年来 西欧・米などの諸外国の侵略が相次いで居た。これに憤激した
者が集団を作り、“扶清・滅洋”を旗印として排外愛国団体「義和団」と称して活動
し、清国人のキリスト教徒や各国の宣教師等を襲った。清国正規軍は当初は傍観
していたが、やがてこれらと同調する様になって、暴動は次第に拡大・本格派した。
本日は北京の隣の豊台駅を襲撃したので、外国居留民・清国キリスト教徒など
4,000余名は各国の公使館に避難し、援軍が来るまでの約2ヶ月余の間 篭城し
たので、これを北清事変と呼ばれるようになった。 これがロシアの満洲占領への
口実を与える結果となった。


昭和17年5月28日

◎ キスカ島攻略の部隊が大湊を出港した。 アッツ島攻略部隊は続いて29日に
大湊を出港した。

◎ 支那戦線。
中支の戦線の蘭谿付近の戦闘で、馬上で陣頭指揮をとっていた第15師団長酒井
直次中将が地雷に触れて戦死された。


昭和19年5月28日

◎ ビアク島の戦闘。
ビアク島はニューギニアの西部・ホーランジア北方500キロにあり、飛行場獲得を
狙っての米軍上陸であった。
同島守備第36師団の第222連隊(弘前、葛目大佐)は、堅固な洞窟陣地によって
勇戦して連合軍のビアク飛行場使用を許さず、本日もモクメル第1飛行場への米軍
攻撃に対して、第7中隊が肉薄攻撃で米M4戦車3輌を破壊し、米軍に100名以上
の戦死傷を与えて撃退した。
陸海軍共同の「渾作戦」が立案された。これは陸軍の海上機動第2旅団を6月4日
ビアクに逆上陸させる計画であったが、決行直前にマリアナ方面の戦況が逼迫して
きたため中止となった。
ビアク島の海軍沿岸砲台は、米駆逐艦「ストットン」(1,620トン)を砲撃し損傷を与
えた。

◎ インパール方面作戦。
インパールまであと15キロにある2926高地に進出して、9日間孤軍奮戦していた
歩兵第214連隊第2大隊約500人のうち、末田大隊長(大尉)ら約40人が辛うじ
てヌンガンの連隊本部へ生還した。
ビシエンプール南西8キロの3つ瘤高地を攻撃中の歩兵第215連隊(高崎)では、
攻撃の兵力が約150人に激減した。
この33師団(師団長柳田元三中将を牟田口15軍司令官は戦意不足とみて罷免
した)を督戦すべく、このビシエンプール南方のモローに来ていた第15軍司令部で
あったが、補給無しでは戦えない。インパール盆地の狭い地域に追い詰めたつもり
の英印軍3個師団は、所謂「円頭陣地」作戦をとって居り、コヒマとの間は我が31
師団に切られて居ても圧倒的な空軍力で弾薬・食糧は次々と充分に補給されて
いた。疲労の極にある33師団にも15軍からは次々と実行不可能な命令が出され
るのだった。 
筆者菅原も数年前現地に行って見て、インパールを目前にして戦車にやられて全
滅(山砲2門も弾つきて)する場所で涙したのだった。


昭和20年5月28日

大本営が大陸作戦の大幅後退を指示した。
支那派遣軍に対し、湘桂・奥漢鉄道沿線の占領地域を撤退して、兵力を中支・北
支へ集中集結せよとの大命が下った。本年4月2日 宮中での大本営の作戦連絡
会議で小磯首相(4月5日総辞職)が最後に残していった言葉がやっと実現された
わけである。
◎ ポツダム予備会談が開催された。
ソ連のスターリン首相は「極東ソ連軍は8月8日までに展開を終わり、8月中に攻
撃前進を開始する」と言明した。(日本側は知らず。)

◎ 沖縄戦線。
陣軍航空は沖縄海域へ第9次航空総攻撃を発令した。
計14隊の屠竜8機・隼10機・飛燕4機・疾風4機・97戦4機・2式高練13機、海
軍の白菊1隊4機の総計47機が散華した。
戦果として駆逐艦「シュブリック」(1,620トン)が大破し破棄へ、他に輸送船2隻
に損傷を与えた。犠牲の割に戦果は次第に少なくなってきているのだ。


●5月29日

昭和14年(西暦1939年)5月29日

◎ ノモンハンにて東(あづま)支隊が全滅した。
ノモンハン付近で越境してきた外蒙古軍が有り、これを駆逐した捜索第23連隊
(東中佐)はハイラルに帰還した。その後 今度は戦車を伴ったソ連軍が外蒙古軍
を支援して、再びハルハ河を越えてノモンハン付近に陣地を構築し始めた。
このため 第23師団長は山県支隊(歩兵第64連隊基幹、長は山県大佐の第3大
隊に連隊砲中隊と捜索第23連隊220人を配属)を編成して出動を命じた。 山県
支隊主力は正面から攻撃を行い、東捜索連隊支隊には敵の退路遮断を命じた。
東支隊は28日から橋染北部に突進したが、待ち構えたソ連軍の優勢な砲火と
戦車とに圧倒され、本部からの応援部隊も無く、途中偶然会ってからは自発的
に救援に廻った浅田小隊と共に、遂に全滅したのである。
これはソ連の意図を知らなかった関東軍のミスの始まりと言うべく、ホロンバイル
の大平原よ、ここでこれから苛酷な戦闘が繰り返されるのだ。
筆者菅原は本年の6月24日から1週間の予定で、この地を視察慰霊する予定で
ある。


昭和18年5月29日

◎ アッツ島の守備隊が玉砕した。[この件は前年にも特に配信済みであるが再度]
新聞もテレビも報じなかった(ニュースバードのみは報じた)が、それだけ日本人
の気持ちも平和に風化したのかと情け無い。それは日本大本営が初めて使って
発表した玉砕という言葉の第1号としてのアッツ島守備隊全滅の日である。
17年4月18日 ドーリットル中佐率いるB25爆撃隊が日本本土を空爆した。そこ
で日本は南方ばかりでなく、太平洋側・北海側へも配備を強くするのだが、米国
本土であるアリューシャン列島の南端のアッツ・キスカ両島を占領する事となった。
ここは日本領であった千島最北端の幌筵島より約1500qもある。樋口中将北方
軍司令官(札幌在)は配備を変更して北海守備隊(司令官・峯木少将)の下に第1
地区隊(隊長・佐藤大佐)でキスカ島を守備し、第2地区隊(隊長・山崎保代大佐)
でアッツ島の守備を発令した。
山崎大佐は4月18日アッツ島に上陸して、5月1日 峯木司令官より親しく命令を
受けた。
アッツ島守備兵力は増強がままならず、敵が上陸してきた日でも予定の半分で、
病院・船舶部隊や海軍基地隊(129名)を入れて計2,576名であった。
大佐は直ちに陣地配備の増強につとめたが、島の北湾方面に重点をおき、南湾
は山岳地帯を選んで後退配備をとり海岸は警備にとどめ、その築城は命令に従い、
飛行場建設に大部の努力と資材を投ぜねばならず、地質は堅硬な為、陣地は野
戦築城の域を出なかった。弾薬・軍需品の集積も予定の3分の1にも及ばず、食
糧も不足し補給は優勢な米航空勢力と艦隊の為ままならない状況が続いていた。
そこに昭和18年5月12日 優勢なる米軍は上陸したが、近代装備のその兵力1
万2千人、加えるに一方的に優勢な大口径の艦砲射撃と猛烈な爆撃に、山崎部
隊は死傷続出したが懸命に防戦したのである。
然し、既に 大本営は5月20日アリューシャン列島放棄を決定していた。 そして、
アッツ救援も断念していたのである。日本連合艦隊は動かず、現地に協力すべき
第5艦隊(河瀬四郎中将)は、軍令部と連合艦隊の顔色ばかりをうかがって最後
まで動かなかった。山崎大佐にはその旨の報せはなかったが判って居たと思わ
れる。一兵の援助も要請しておられない。
いよいよ最後の時 夜20時すぎ、本部に集めた将兵を前に山崎部隊長は、全滅
に陥った事をまず詫びた上、武人の名誉を傷つけないため一緒に死んで欲しいと
悲痛なる声涙共に下る訓示を行った由だが、その為 疲労と空腹にうちひしがれて
いた将兵は再び立ち上がり、西南の方の故郷を向いて「天皇陛下万歳」を3唱後、
夜10時すぎより最後の突撃を開始した。山崎部隊長は先頭に立ち、倒れては起
き倒れては再び突進し、遂に全員壮烈な戦死をとげたのである。捕虜となった者
は重傷者の僅か20数名のみであった。
その模様は、戦死した将兵の書き留めていた手帳(あとで米国より返還)や、米軍
の第一線にいた中隊長の証言で明らかとなった。
この事は藤田嗣治氏の「アッツ島玉砕」という有名な絵にもなって居り、見る人の
魂に深く訴えるものを感じる。
山崎大佐戦死の地点には、戦後米海軍の手で、その名誉をたたえる標示がある
由で、私も是非一度慰霊に訪ねたいのだが、天候と便利とが悪いのでまだ行かれ
ないのは気残りである。
尚、山崎大佐は陸士25期の方で、私菅原を含め陸士57期生は予科卒業後各地
に士官候補生として隊付したのですが、その時 高田の第30連隊に隊付した同期
生が本科で一緒になりましたが、彼等の話では連隊長として薫陶を受けたそうで、
誠に温厚な立派な方であったと聞いて居ります。

 【 アッツ島血戦 勇士顕彰国民歌 】 山田耕筰 作曲(昭和18年)

  1.刃も凍る北海の 御楯と立ちて二千余士 
      精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮をとる 山崎大佐指揮をとる
  2.時これ五月十二日 暁こむる霧ふかく
      突如と襲う敵二万 南に迎え北に撃つ 山崎大佐指揮をとる
  3.陸海敵の猛攻に 我が反撃は火を吐けど
      巨弾は落ちて地をえぐり 山容ために改まる 山崎大佐指揮をとる
  4.血戦死闘十八夜 烈々の士気天を衝き
      敵六千は屠れども 我また多く失えり 山崎大佐指揮をとる
  5.火砲はすべて砕け飛び 僅かに銃剣手榴弾
      寄せ来る敵と相撃ちて 血潮は花と雪を染む 山崎大佐指揮をとる
  6.一兵の援一弾の 補給を乞わず敵情を
      電波に託す二千キロ 波頭に映る星寒し 山崎大佐指揮をとる
  7.他に策なきにあらねども 武名はやわか汚すべき
      傷病兵は自決して 魂魄ともに戦えり 山崎大佐指揮をとる
  8.残れる勇士百有余 遙かに皇居伏し拝み
      敢然鬨と諸共(もろもろ)に 敵主力へと玉砕す 山崎大佐指揮をとる

アッツ島玉砕の大本営発表は翌5月30日夕方に行われた。“玉砕”とは部隊が全
滅する事であり、大本営が正式に使ったのはアッツ島が初めてであった。
最後の一兵まで全力を尽くして戦う。決して降伏はしない。これが日本陸軍の伝統
の姿である。然し その言葉の裏には「見殺しにした(する)」という真実が隠されて
いるのである。作戦上 止むを得ないとか、援ける力が無かったとか色々理由はあ
ろう。特に陸軍の場合、嘗つては予想もしなかった南方戦線で、主に海軍による
理由で輸送補給がつかず、しばしば玉砕が発生しているのである。

アッツ島最後の時を迎え、山崎部隊長は江本海軍参謀(少佐)と本部付の沼田陸
軍大尉との2人に部隊の最後までの戦闘経過を上部に報告せよと、島からの脱出
を命令し離脱させた。然し これは迎えの潜水艦が来るのが6月5日に遅れたので
成功しなかった。戦後、東突端の洞窟内で4遺体が発見されたが、内2体はこの2
人であると確認されている。恐らく自決されたのであろう。
アッツ島の陸軍戦死者は山本大佐以下2,527名、海軍は江本少佐以下111名、
捕虜27名は戦後生還した。米軍戦死は約600名・戦傷1,200名となっている。


昭和19年5月29日

◎ ビアク島の戦闘。
現地守備隊は本日も引き続き米軍の攻撃を撃退した。
我戦車中隊の軽戦車7輌は、勇敢に米軍のM4戦車に挑戦したが、95式軽戦車
の37ミリ砲はM4に命中しても跳ね返り、敵M4の76ミリ・カノン砲弾は我が戦車
を貫通するという、能力・装甲に大差がある為 残念乍ら全滅し、岩佐中隊長(中尉)
も戦死されたが、敵軍も打撃を受けて退却したのであった。

◎ 渾作戦が発令された。
ミンダナオ島にある陸軍海上機動第2旅団(玉田少将)約2,300名を戦艦重巡を
含む海軍第16戦隊の護衛付きでダバオから出撃させてビアク島に逆上陸作戦を
「渾作戦」という。(前出)
この報は現地守備隊の士気を大いに奮い立たせたのであつた。
これは6月2日ダバオを出撃したのだか、6月3日 米B24に発見された為 一時中
止となり、最終的には取止めとなった。


昭和20年5月29日

◎ 沖縄戦線。
米軍が首里城の一角に侵入した。

◎ 沖縄特攻作戦
海軍の97艦攻2機と陸軍の隼5機が突入した。高速輸送艦「タタム」(1,400トン)
に損傷を与えた。

◎ B29が横浜を空襲した。
この空襲で横浜の市街地の3分の1を焼失し、4月以降3回の空襲で死者4,000
名を越えた。B29の撃墜5機・損傷175機、P51の3機を撃墜した。
◎ 各地で艦船の沈没が続いた。

北千島から北海道へ転進する第91師団(旭川)の将兵を乗せた輸送船「天領丸」
(2,231トン)がオホーツク海で米潜の雷撃を受け沈没した。高射砲1ヶ大隊と野
砲1ヶ中隊とが海没した。
関門六連島沖で「宇和津丸」(882トン)・「銀星丸」(2,220トン)、シャム湾で「越
南丸」(2,156トン)とがそれぞれ触雷して沈没した。



●5月30日


昭和9年5月30日

◎ 日本海海戦時の連合艦隊司令官であった元帥東郷平八郎が死去された。


昭和16年5月30日

◎ 連絡懇談会において、松岡外相は外交無統制の責ありとして辞意を洩らしたが、
すぐに辞める様でもない。外相は米国に対する野村工作に熱意は無いがごとく見
受けられた。


昭和19年5月30日

◎ ニューギニア西部戦線。
ビアク島での激戦が続いた。第47碇泊場司令部の大曲中尉以下9名が、爆薬を
抱いて敵機関銃陣地に突入して戦死した。
サルミ南東30キロのアラレの米軍海岸陣地を第36師団(弘前)歩兵第223連隊
(青森)の第3大隊(大木少佐)の約350人が夜襲した。 佐藤第9中隊長(中尉)
以下戦死約30名・戦傷約50名が出た。米軍の戦死12名・戦傷10名と言う。
火力の差か?


昭和20年5月30日

◎ 沖縄戦線について。
32軍司令部は首里から後退後、本日 沖縄南端の摩文仁に到着した。

対ソ及び本土防衛の為の配置転換をする。
 @対ソ戦準備強化策としては、戦前には予期してなかった南方戦線への大兵力
  転用のため、当然手薄となっている満洲の兵力を補充する為、支那派遣軍の
  4ヶ師団を急遽満洲に転用すると発令した。
 A本土防衛強化策としては、千島列島・得撫島に展開している第42師団(仙台)
  を北海道に転進開始を始めた。

◎ 各地で船舶の沈没が続く。
朝鮮迎日湾補項沖で貨物船「日柑丸」(891トン)が爆撃され沈没した。九州博多
湾玄界島付近で輸送船「日向丸」(9,687トン)・「博運丸」(594トン)とが触雷沈
没、関門海峡で「香澄丸」(1,487トン)と「神代丸」(1,095トン)が、神戸和田岬
灯台沖で貨物船「冨士王丸」(2,217トン)が、瀬戸内海佐柳島沖で油槽船「第14
高砂丸」(834トン)が、それぞれ触雷して沈没した。情けない。

原爆投下目標からスティムソン陸軍長官の判断で京都を外したこと。
米国で原爆製造計画(マンハッタン計画)は最終段階に入っており、原爆投下目標
検討委員会が開かれていたが、責任者グローブス少将はその資料の中で5月30
日付で第20航空軍ノースダッド参謀長宛の文書で次の様に書いている。「今朝
マーシャル陸軍参謀総長とスティムソン陸軍長官とは、我々が選んだ投下目標の
京都・広島・新潟のうち、京都については承認しなかった。 このことをアーノルド司
令官に伝えて下さい」と書いており、マーシャルよりもスティムソンの方が京都投下
には反対であったとされている。彼は戦前京都を見て居り、その価値を知っていた
のがその原因だという。



●5月31日


明治24年(西暦1891年)5月31日

◎ ロシアがシベリア鉄道を起工した。


大正5年(西暦1916年)5月31日

◎ 英独海軍のエトランド沖海戦が起きた。
第1次世界大戦における史上最大の巨艦巨砲主義時代における大海戦が、この
エトランド沖で 午後2時から夜にかけて行われたのである。
イギリスが保有する主力艦37隻対ドイツ海軍27隻で、数においてはイギリスが
圧倒していた。然し 結果は10対6の割合でイギリス海軍の損害が大きく、ドイツの
勝ちとも言われるが、この海戦で打撃を受けたドイツ海軍は、その後 Uボート(潜
水艦)による通商破壊作戦を行う他には手段がなくなり、戦略的に見れば、この決
戦はイギリス側の勝ちとも言えるだろう。


昭和17年5月31日

◎ 特殊潜航艇による第2次特別攻撃隊がマダカスガル島ディエゴスワレスとシド
ニーとを奇襲攻撃した。
 (イ)英軍が占領中のフランス領マダカスガル島(アフリカの東側、インド洋)の
   ディエゴスワレスを奇襲した特殊潜航艇2隻(秋枝三郎大尉・竹本正巳一等
   兵曹と岩瀬勝輔少尉・高田高三二等兵曹)は、英戦艦「フミリーズ」(29,150
   トン)を大破し、改装タンカー「ブリティシュロイヤル」(6,993トン)撃沈の戦果
   をあげた。この内 座礁した一隻の潜航艇の乗組員2人は、上陸して英軍守
   備隊の降伏勧告を拒否して、突撃して戦死した。
 (ロ)オーストラリアのシドニーを攻撃した特殊潜航艇3隻(松尾敬宇大尉・都竹
   正雄二等兵曹と中馬兼四大尉・大森猛一等兵曹と伴勝久中尉・芦辺守一等
   兵曹の6人乗込)は、米重巡「シカゴ」を狙った魚雷が岩壁に当たって、係留
   中の兵員宿泊艦「クッタブル」を撃沈した。オーストラリア海軍は撃沈した松尾
   艇と中馬艇とを引き揚げ、4人の勇敢な戦いをたたえて海軍葬で弔ったので
   あった。遺骨は17年10月 交換船で日本に送り届けられた。
大本営では、この攻撃は6月5日に発表されて大々的に報じられたが、翌18年3月
27日 この十勇士の氏名と2階級特進とが公表されたのである。


◎ ミッドウェー攻略の連合艦隊の動き。
総力をあげてミッドウェーを目差す連合艦隊は、31日夜には「大和」以下の戦艦部
隊は十六夜(いざよい)の雲の晴れ間に見える月下で、父島北方を威風堂々の大行
進で通過した。まさかの悲惨な結果を誰が予想し得たであろうか。


昭和18年5月31日

◎ 御前会議で大東亜政略指導大綱が決定された。
内容について記すと
 【方針】帝国に対する諸国家諸民族の戦争協力強化を主眼とし、特に支那問題の
     解決に資す。遅くとも本年11月初頭迄に達成するを目途とする。
 【要領】(簡略に記す)
   1.対支那新政策徹底具現のため日華基本条約を改訂し、日華同盟条約を
     締結する。
   2.タイに対しては、マライの失地恢復と経済協力強化を実行する。
   3.フィリピンは本年10月頃独立させる。
   4.マライ・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスは帝国領土と決定し、重要資源
     の開発努力をする。(この項は意見不一致もあり当分不発表へ)
   5.ビルマ・仏印・その他は既定方針による。
本年10月下旬までに以上を終わり、大東亜会議を開く。


昭和19年5月31日

◎ インパール方面作戦について。
コヒマ東方所在の第31師団では、佐藤師団長が第15軍司令官にコヒマ撤退を上
申して、許可の無いまま 本31日夜 独断で命令を出し、6月1日0時を期して 一部
の部隊を後方へ撤退させた。
31師団の山砲兵連隊(白石大佐)は守っていた5120高地では、19日以来の英
印軍の猛攻撃に連隊長は玉砕を覚悟し、師団長に決別の電報を打ったが、その後
に撤退命令がきた例もあった。
陸軍刑法第42条には「司令官敵前に於いて、其の尽くすべき所を尽くさずして隊兵
を率いて逃避したるときは死刑に処す」と決まって居り、正に この条に当てはまる帝
国陸軍では前代未聞の行動であり、親補職である師団長がこの条文を知らない筈
はない。
陸軍全体の名誉を守るため、15軍では止むなく師団主力のウクルルへの
転進命令を出して、これを正式に追認したのであった。
佐藤師団長はウクルルまで下ったが、ここも補給が準備されてないのを知って、更
にフミネまで下った。牟田口軍司令官はビルマ方面軍からインパール作戦中止を
7月5日に命じられたが、その日に佐藤師団長を罷免し、更に軍法会議にかける事
を要求したが、上部機関は精神錯乱として不起訴とし、予備役編入、即召集の方法
をとって、その後はジャワで軍政顧問みたいな閑職につけた。いづれが良かったか、
論の別れるところである。
インパール作戦で牟田口15軍司令官から戦意不足とみられて罷免された柳田師
団長の第33師団の作戦開始以来の戦死者は1,310名・戦傷者2,562名・戦病
3,544名であった。
同山本支隊では、戦死傷者2,036名・戦病1,390名であった。

◎ 本日も船舶6隻が各所で撃沈された。(略す)


昭和20年5月31日



◎ 閣僚懇談会について。
総理・陸海軍大臣・左近司・安井の両国務相での懇談会で、席上 米内海相及び
左近司国務相から戦争の前途について投げやり的な発言があったが、総理と阿南
陸相から毅然とした反駁が行われた。阿南陸相は「戦争をやめる事には同意だが、
どうやってやめるかの方法が問題だ。日本がどうなってもよいでは相すまぬ」という
発言であった。

阿南大臣や梅津参謀総長の本土決戦思想は、少しでも日本に有利に戦争終結の
チャンスを掴むという事で、それ以外に戦争終結の方法なしとの戦争指導上での
根本観念に基づくものであった。